かつて、腎性貧血はその治療が患者にとって大きな負担となる疾患であった。慢性腎臓病(CKD)の進行に伴い、多くの患者が貧血を合併し、疲労感、動悸、QOLの著しい低下に苦しんでいた。1990年代後半に登場したESA(erythropoiesis-stimulating agent)製剤は、腎性貧血の治療に革命をもたらしたものの、その投与は注射剤であり、透析患者はもちろん、保存期CKD患者であっても、週に2〜3回の通院や自己注射を余儀なくされていた。特に通院困難な高齢患者や、就労中の患者にとっては、大きな医療アクセス上のハードルとなっていた。加えて、ESA製剤には高Hb目標を設定した場合の心血管リスクや、高用量投与による有害事象リスクなどが指摘され、用量設計や治療目標の設定には慎重なバランスが求められていた。鉄の補充も不可欠であり、治療は複雑で、医療従事者側のマネジメント負担も小さくはなかった。
このような中、近年登場したHIF-PH阻害薬は、腎性貧血治療の新たな可能性を切り拓く存在として注目を集めている。経口投与が可能で、鉄代謝の調整作用も併せ持つことから、ESAとは異なる作用機序を有し、医療アクセスの課題、Hb変動性の制御、心血管安全性など多くの側面でアンメット・メディカル・ニーズに応えるポテンシャルが期待された。
製薬企業「光陽製薬」は、日本に本社を置く中堅の内資系製薬企業である。光陽製薬は、ESA製剤を自社で創製し、腎性貧血治療の一翼を担ってきた。そんな同社が、近年ふたたびこの領域に力を入れ始めている。その背景には、これまでの注射製剤による治療の限界と、患者・医療現場の双方が抱える課題への強い問題意識があった。
ESA製剤は確かに治療の中心であったが、頻回の注射や通院、Hb値の過剰な上昇による有害事象リスクなど、多くの現場的な制約も抱えていた。光陽製薬は、それらの課題を解決すべく、新たな選択肢として開発を進めているのが、経口HIF-PH阻害薬「ネフロスタット」である。
この新薬は、ESAとは異なる作用メカニズムを持ち、経口投与で貧血改善を可能にする。鉄代謝の調整機能も兼ね備え、より包括的かつ柔軟な治療介入が期待されている。かつて自らが築いたESAの歴史を踏まえつつ、新たな治療体系の創造を目指す挑戦が、いま静かに動き始めていた。
川島俊は、国立大学で統計学を専攻し、修士課程を修了した後、光陽製薬に入社して、現在は5年目となる。データサイエンス部に所属し、これまでは市販後調査やリアルワールドデータの解析などを主に担当してきた。薬剤、疾患、臨床試験についてはまだまだ勉強不足であるものの、次のステップとして臨床開発に試験統計家として積極的に参加したいと考えていた。
そんな川島にとって新たな挑戦となったのが、新規作用機序を持つ経口HIF-PH阻害薬「ネフロスタット」の第II相試験への参画だった。保存期CKD患者を対象とし、Hbの変化量を主要評価項目とするこの試験において、彼は試験統計家として初めて開発チームに加わることになった。
その日は、腎性貧血プロジェクトチームの定例会議。会議室の空気はやや張り詰めていた。川島は資料を抱えて会議室に入り、緊張気味に席についた。出席者は、開発リーダーの佐伯、臨床開発の稲葉、臨床企画の松村、安全性評価の本間らベテラン勢だった。
佐伯:「今回の第II相試験では、透析療法や腎移植などの腎代替療法を必要としない保存期CKDの患者さんを対象に、ネフロスタットの用量反応を見たい。開始用量として150mg、300mg、600mgの3群にランダム化して、そのあとはHbの値を観察しながら適宜増減。増減のルールはプロトコルで厳格に規定することを考えています。主要評価項目は24週後のHbの変化量。プラセボ対照で、試験中のESA製剤の使用は禁止。ま、これは当たり前か。」
稲葉:「でもこの手の試験だと、ESAからの切替患者で途中で貧血が悪化したら、救済治療をどうするか問題になるよね。」
松村:「過去のESA製剤の試験でも、Hbが上がりすぎて中止になったり、効果不十分で救済治療に切り替えられたりってケースは多かったですね。途中で脱落する人や、働いている患者さんも多いので、予定通りの時期に来院しない人もいましたね。あと、効果出ない、って言って同意撤回した人もいたような…」
本間:「あと有害事象による中止ね。頭痛とか高血圧で被験治療を中止する例が多かった記憶がある。死亡例もまれにあったから、リスクの評価は慎重にやらないと。」
佐伯:「了解。では次の会議で検討結果を報告してください。ところで、川島くん、ICH E9(R1)が出たことで、最近じゃ『estimand』をきちんと設定しないと当局相談でも突っ込まれるらしいね。今回の試験も例外じゃない。川島くん、次の会議までに、この試験について、どういうestimandを設定すべきか考えてきてくれる?中間事象ってやつを設定する必要があるんでしょ?我々はよく分からないから、設定根拠も含めた資料も作成してきてくれる?」
川島:「は、はい……(estimandってE9(R1)は読んでみたけど、どう設定するんだろう……)」
会議が終わった後、川島はすぐに自席に戻り、ノートPCを開いて調べ始めたものの、どこから手をつけるべきか分からず手が止まった。estimandとは何か、それにどう向き合うべきなのか——。そこで川島は、統計グループの課長である杉山に相談を持ちかけた。
川島:「佐伯さんからestimandを考えてくるように言われたんですが、正直なところ、どういう条件でどう設定すべきか具体的な指示がなくて……何から考えればいいのか、わからなくて困っていて……」
杉山課長は一瞬黙り込んだ後、穏やかではあるが芯のある口調で言った。
杉山:「川島くん、それが開発チームの会議なんだよ。開発会議では、明確な統計的タスクがすべて与えられるとは限らない。会議の中で発言された臨床上の懸念や現場の温度感、そういった非言語的な情報まで含めて汲み取り、統計的に必要な構造へと落とし込む。それが試験統計家の本分だよ。やることをすべて指示されないと動けないようでは、この先の開発では通用しない。」
その言葉に、川島は胸の内に何かがじわりと広がるのを感じた。悔しさもあったが、それ以上に自分が信頼され、試されていることを実感した。
川島:「わかりました。やってみます。」
そう言って席に戻った川島は、もう一度会議の議事録とメモを見直しながら、estimandの構成要素と中間事象、中間事象に対応するためのストラテジーについて静かに検討を始めた。
川島俊の立場で、第II相試験のestimandの構成要素を整理してください。中間事象についてはストラテジーの選択根拠を明確した上で、次の会議で提出する説明資料を作成してください。